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大日坊とは

湯殿山大日坊の由来

大日坊とは

古代山岳信仰の聖地“湯殿山

湯殿山は大同二年四月八日弘法大師の開山で、湯殿山大権現と称し奉り、両部大日如来の鎮まる霊地です。両部大日如来は万物の父母と仰がれ、又往時は伊勢神宮の奥の院ともいわれ日本全国より尊ばれてきました。天然自然のお湯にひたる御宝前は登拝者の心念をひきつけ、“言わずの山語らずの山”と言われ、湯殿山のご宝前のことは人に話してはならない、語らば聞くな、聞かば語るなという厳しい戒めがあるほどベールに包まれた秘境。現在も写真撮影禁止、参拝は土足厳禁で、俗世と隔離された仏神の領域である思いを深くします。

女人の寺と崇められる聖地にて

大日坊は大同2年(807年)弘法大師によって開創され、寺号を教王瑜伽寺と称し、 後に瀧水寺金剛院と改められました。古来より湯殿山が女人禁制だったために、大日坊に湯殿山大権現をお招きし、 またお沢八万八千仏を祀って女人の湯殿山礼拝所(湯殿山全てを祀る寺)として建立したのがこの寺の源となっています。
幕府の命令により湯殿山4ケ寺共同運営となりましたが、他の三寺院は元の山号がありますが、本寺大日坊は湯殿山の山号だけです。「大日坊」という名称は、隆盛を極めた頃に建立された僧が生活する宿舎である僧坊や、湯殿山流戒律の修行道場、執事本坊、講堂も兼ねた建物湯殿山の本坊を大日坊と呼ばれたことにちなむとも言われています。

徳川家との深い縁

徳川家文状箱

徳川家三代将軍の座をめぐり、天下を二分しての争いはその時代として重大事件でした。
その渦中にあって幼君「竹千代」の乳母お福(後の春日の局)は人知れず大日坊を訪れ、命懸けのご祈願をしました。 しかし当時はこれを隠して二代将軍の病気平癒が表面上の理由であったと伝えられていますが、 竹千代君は三代将軍が与えられることとなります。その後、寛永14年、三代将軍家光(竹千代)が重い病気にかかった時も、 病気平癒のご祈願として内心の旗本“久米助右エ門(法海行人)”が代参しています。

大日如来

また、徳川家光は大日坊に大日如来を奉納、堂宇を再建するなどし、その代参として春日の局が訪れています。大日坊は徳川将軍家全国七ケ寺の一別奉納祈願寺と定められました。

このように日本歴史のひだに潜み、静かに語り継がれる古人たちの真実は、願いをこめて奉納された現存する宝物によって 裏付けられ、脈々と続いているように思われます。

重厚な歴史を刻む仁王門

鎌倉時代に創建された大日坊仁王門は、三間一戸の八脚門としては日本最古の建築。

正面左右に風格をそなえた風神雷神像が安置され、その奥には鎌倉時代運慶作の仁王像が鎮座しています。 傍らには多数の草履や草鞋が奉納され信仰の厚さがわかります。

重厚な歴史を刻む仁王門 大日如来

文化財を有する東北一の霊山

代受苦菩薩真如海上人”の即身仏と宝筐印塔

元の境内地には12代景行天皇の皇子御諸別皇子(みもろわけのおうじ)のご陵所に植えた県指定天然記念物樹齢1800年の老杉“皇壇の杉”が大切に保存されています。
また全国でも稀に見る大きさとその美しさが称えられる「宝筐印塔」や日本一の庚申塔、また仏門に一生を捧げた “代受苦菩薩真如海上人”の即身仏を安置し数々の文化財を有しています。


皇壇の杉

後に大日坊は明治の廃仏毀釈により湯殿山は没収され、焼き討ちにより伽藍は焼失し、また後に83世は命を絶たれ、さらに地すべりの被災と、打ち続く悲運に見舞われましたが、昭和11年(1936)現在の地に規模を縮小して移転しました。

湯殿山は神道に変更され出羽三山神社の管理になりましたが、大日坊では6年に一度(丑歳と未歳)には 秘仏ご本尊を御開帳しています。仏の教えを継承し弘法大師の本髄を守り続け、2007年には1200年祭を行い、現在の貫主は95世を数えています。

 

大日坊は古くから伝わる神仏の神秘や数々の伝説を秘めながら、今日まで熱い信仰が深く静かに息づいているのです。

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